顕正会の偽本尊 ・・・ニシケンさん 



投稿日:2007/11/04(Sun) 10:10 No.261  
顕正会の偽本尊疑惑は数年前からありました。だが、当時は疑惑の域から確信にいたる事はありませんでした。
しかし、近年の会館増設、自宅拠点の増加、御本尊のお取替え(日達上人、日顕上人の御本尊を日顕上人の御本尊に取替え)に伴い、有る筈の無い御本尊の出現、無限に配られる御本尊など、かって一在家の組織であった団体に有ってはならない事が起こり出した。

顕正会でしか存在しない御本尊
○日布上人の大幅御形木御本尊(会館用)
○年々増加する日寛上人の御形木御本尊(自宅拠点、お取替え用)
○最近、発覚した「日布上人御書写の『大日蓮華山大石寺』の脇書がある導師曼荼羅の御形木御本尊」六幅(葬儀用)
上記の偽本尊(顕正会作成)は事実です。御宗門から既に破折されています。
日布上人の大幅御形木御本尊(会館用)は顕正会しか存在しない、無いはずの御本尊です。
自宅拠点用の日寛上人の御形木御本尊は既に数点御宗門へ持ち込まれ偽と確認されています。


「日蓮正宗の正しい本尊について」
 日蓮正宗の正しい本尊は、「日蓮正宗宗規」第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大曼荼羅を帰命依止の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が「聖人御難事」に「此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり、仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(全集一一八九頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐として顕わされました。日興上人の「日興跡条条事」に「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す」(聖典五一九頁)と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯受一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。日寛上人は「就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要四ー二二一貢)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。代々の御法主上人は、その相伝の権能のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

「ニセ本尊」について
たとえば、精巧なカラーコピーの機械で、紙幣をコピーして「お札」を作製するとします。意かに本物の「お札」と見分けがつかなくても、そのコピー札は「ニセ札」であり、それを使えば法的に罰せられます。

なぜかといえば
1・正式な政府の許可なく
2・日本銀行から発行されたものではな
3・自分で勝手に作ったものだからです。「ニセ本尊」はこれとまったく同じ道理です。
1・御法主上人の許可を受けず
2・総本山から下付されたものではなく
3・顕正会が勝手に作製したものだからです。(中略)もし「広布を願う一念があればその資格が具わる」などというのならば、誰でもいつでも勝手に本尊を作ることができることになり、大聖人の仏法は混乱し、滅亡してしまうでしょう。ニセ札は法律で罰せられますが、「ニセ本尊」は仏法破壊の大罪として、必ず現罰をこうむるのです。
御法主上人の許可なく、勝手に複写されたものを、私たちは「ニセ本尊」と呼んでいるのです。

「御本尊」とは、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(全集一一二四貢)と仰せの、大聖人の「たましい」が、血脈相承のうえから、正しく写されている御本尊のことです。しかし、顕正会が勝手に複写して作ったものは、姿・形は日布上人・日寛上人の御真筆とそっくりであっても、血脈付法の御法主上人の許可がないので、大聖人の「たましい」が写されておらず、「正しい御本尊」とはいえないしろものです。たとえば自分が勝手に御本尊を写真に撮って、それを拝むのと全くおなじことであり、大謗法なのです。

 「ニセ本尊」には、仏法に敵対する魔の力があり、これを拝むと魔の通力によって現罰を受け、その謗法の罪によって永く地獄に墜ちる結果となります。大聖人の仏法において「似て非なるもの」を用いるということは、大謗法です。
その理由は、仏に似ているがゆえに、正しい教えが隠され、多くの人々が真実の仏を見失ってしまうからです。大聖人は、真言宗が天台の一念三千を盗み入れて「大日経第一」と立てたことに対して「真言亡国」と破折されていますが、顕正会の「ニセ本尊」は日蓮正宗の御本尊を盗み取り、日布上人・日寛上人の御本尊に姿・形を似せているだけに、その罪もまた大きいのです。

三宝を誹謗する謗法団体となった顕正会に所属している人は、従来の御本尊でも功徳は積めません。「ニセ本尊に功徳はない」というのは、その本尊自体が、最初から大御本尊の血脈が通じておらず、仏力・法力が具わっていないからです。従来の御本尊は正しい血脈のもとにまさしく仏力・法力が具わっており、御法主上人の御指南に従って正しく信仰をすれば、功徳があることはいうまでもありません。
しかし、従来の御本尊であっても、拝む人が血脈付法の御法主上人を誹謗するならば、四力(仏力・法力・信力・行力)が合せず、功徳はありません。かえって、拝むほどに罪業を積み重ねることになります。さらには今までの信心による一切の功徳が消えてしまうことを恐れるべきです。「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(全集一三三八貢)とは、このことです。 

(「日蓮正宗入門」より引用させて頂きました。学会破折版ですが、顕正会用に一部改訂させて頂きました。御容赦下さります様にお願い致します。)





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